1945年11月6日に今治市伯方島沖で起きた旅客船「第十東予丸」沈没事故に関する横浜地方海員審判所(当時)の「裁決書」が、国立公文書館つくば分館(茨城県)に保存されていることが2日、愛媛新聞の調べで分かった。諸説あった犠牲者数を415人とし、転覆地点を特定。事故原因は、過積載で「船体の安定良好ならざりし」中、風と潮の影響を受けたとしている。海難審判に詳しい神戸大大学院客員教授で海事補佐人の鈴木邦裕さん(78)=松山市朝美2丁目=は「必要な証拠調べもされており、内容は信頼できる。事故の詳細が分かる貴重な資料だ」と話している。
 確認されたのは、第十東予丸の船長(事故当時37歳。故人)を行政処分した47年1月14日付裁決書の原本。愛媛新聞が国立公文書館に閲覧を請求し、写しが公開された。
 県内海難史上最大の惨事にもかかわらず、第十東予丸事故の資料は極めて少ない。裁決書は当時の海員懲戒法に基づき船長への処分を決めるため、船長の供述や乗組員、乗客らへの聴取などを基に事故を検証。鈴木さんによると、同事故の公的な1次資料の存在は、これまで知られていなかった。
 裁決書によると、事故時の第十東予丸(161トン)の乗客数は、定員209人に対し521人。犠牲者415人の内訳は、死亡401人(乗客393人、乗組員8人)、行方不明14人(乗客13人、乗組員1人)。今治港に向けて午前7時10分に広島県尾道港を出港。同9時25分、伯方島南東沖の六ツ瀬灯標から「約南三十二度西距離約二分一海里(約930メートル)」で転覆した。
 当日は大潮で、船長は伯方島と今治市大三島の間の難所「鼻栗(はなぐり)瀬戸」などを避け、常用航路と異なるルートをとっていたことも判明。「著しく多数の乗客を搭載したるのみならず、多量の手荷物を縛止することなく、遊歩甲板上に積載し船体の安定良好ならざりし」状態の中、「風潮の影響」を受けたため転覆したとしている。
 第十東予丸は瀬戸内海汽船の今治―尾道直航便。