12月9日は「漱石忌」。文豪夏目漱石が1916(大正5)年、胃潰瘍の悪化で49歳でこの世を去って、今年は百回忌に当たる。臨終の際には多くの松山ゆかりの門下生が駆け付け、正岡子規との交流や愛媛県尋常中学校(旧制松山中、現松山東高)赴任を機に始まった松山との縁が、終生つながっていたことが分かる。
 漱石が死の床についた際、東京・早稲田南町の住居「漱石山房」には松山ゆかりの門下生が集まった。夫人の鏡子の回想録「漱石の思い出」によると、息を引き取る約1時間前、「ホトトギス」編集人の高浜虚子が訪れ、時々昏睡(こんすい)状態に陥る漱石と最後の会話を交わした。臨終直後には、愛媛県尋常中学校時代の教え子で、俳誌「渋柿」主宰の松根東洋城が到着し、「死顔に生顔恋うる冬夜かな」と詠んでいる。
 最期をみとった主治医も愛媛県人の真鍋嘉一郎。東洋城同様、県尋常中学校で漱石に学び、後に東京帝大医学部教授となった。漱石は東京・南池袋の雑司ケ谷霊園に眠る